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 ICC参加レポート 10/15

石島です。レポートその10は、4日目の夕方からです。

2005/5/19
<夕方のバッハ>
5番をフィリップ・ミュレールさん、6番を藤原真理さんが演奏。
ミュレールさんはバッハの指示通りA線をGに下げての演奏。
そのためとても豊かな和音が感じられた。
これが本来のバッハが指定した和音なのだなあ。
非常にいい気分。
フィンガリングも通常調弦よりはるかに簡単そうである。
私もいつかGに下げて弾いてみようかな。
でも、フィンガリングが混乱して通常調弦では弾けなくなりそうだし。。。

藤原さんは繰り返しや終止にに関係なく、曲の前半の最後、後半の最後でそれぞれ一息入れる演奏。
曲の歌い方についても、好みが分かれるところか。

<グランドコンサートIII>
この日もコンチェルト4曲のオンパレード(厳密には1曲は変奏曲)。
岩崎洸さんのハイドン2番、マーク・コソヴァーさんのバーバー、ゲイリー・ホフマンさんのサン・サーンス、堤剛さんのチェイコフスキー(ロココ風の主題による変奏曲)。
いずれも大変聴き応えのある見事な演奏。

しかしこの日が三晩目となるグランドコンサートも、観客席にはシュタルケルさん始め、そうそうたる招聘チェリスト達が座って耳を傾けており、演奏者はさながらオーディションを受けているような気持ちではあるまいか。
さぞ弾き難いことであろう。あるいはそんなことには全く動じない強心臓の持ち主もいるのやら。

<チェロアンサンブルサロン>
昼間、チェロアンサンブルコンサートに出演していたミュンヘン・フィルハーモニック・クァルテットの皆さんが、ヤマハのサイレントチェロで参加。
まずは彼らのオープニングコンサートでサロン開始。
昼間演奏しなかった曲も含めて、中には4人がサングラスを掛けての演奏もあり参加者は堪能。
その後フルート演奏を挟んで、怒涛のごとくチェロを持って集まった全員での弾き散らかし、最後はミュンヘンの4人が演奏会でも演奏したクレンゲルのImpromputu(スペリング合ってるかな、即興曲です)を皆で弾いて解散。

今回はここまで。

のつもりでしたが、前回レポートのシュタルケルさんのところで書き忘れた感想を一つ。

シュタルケルさんは「音楽は顔で表現するものではない」という信念でしたけれど、逆に「顔である程度の表現がでるき」ということは間違いない、と私は確信しました。

度を越して(特に笑顔でない方向に)、顔を「表情豊かに」することは聴いているほうも心が硬くなってきますが、そうでない顔は、基本的に音楽は(CDなどでなければ)ライブで人と人が顔を合わせて演奏するので、その人の人間性を感じたり、微笑ましさを感じたりできる要素だと思います。
くれぐれも、度を越さない程度の話ですけれど。

おまけをもう一つ。
ICC開催期間中は、ワークショップと名づけられた部屋があって、楽器や楽譜、小物グッズやお土産などを展示・販売していたのですが、そこで「超人」ダヴィッド・ゲリンガスさんがエンドピンをいろいろと変えながら試奏しているところにたまたま居合わせました。

これはチタンだ、カーボンだ、二重構造だ、先だけが特殊だ、などと説明を受けながら、バリバリと目の前で「音出し」しているのですが、これがまた凄い。
何が凄いかって、とにかく凄い。
たまに「おちゃらけ白鳥トリル版」なども弾いたりしておちゃめなゲンリンガスさん。
素敵な奥様に「どうだ?」などと尋ねながら弾いているところから察すると、奥様は観客としての良い耳をもったアドバイサなのであろう。

さてエンドピンの違いは、というと、聞いている人の中には「違うね」などとつぶやく「違いのわかる耳を持った人」もいましたが、少なくとも私には、違いが全くわからなかったのでした(白状)。
床が絨毯であったせいもあるでしょうが(コンサートホールのような木の床だったら違いがもっと大きく出るはず)、目をつぶって聞いたら絶対に私には区別がつかないと思いました。それほど出る音全てが「ゲリンガスさんの音」として聞こえてしまったわけです。

楽器の細かい部分の調整に気を使うことも確かに大事なことでしょうけれど、一番大事なのは楽器そのものでなく、楽器を弾く技術なのだとここでも思い知らされました。
上手くなりたいなー。
思っているだけではダメで、努力せねば。

では本当にここまで。次は5日目です。
プログラムの流れが1000人のチェロに近づいてきます。
 

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