top of page







  序

この話は、私とチェロとの何十年に及ぶ歴史や演奏について紹介するものではない。
歴史のほんの一部について、思い出せる範囲で執筆したものであり、基本的に事実に基づいて記述している。

  I.

その時、私は酔っていた。
決して、いつも酔っ払っているわけではない。私の名誉のために、それだけは断言しておく。しかしながら、酔っていることが多いというのは確かであり、そこを否定できないのは歯がゆい限りである。

さて、その場所はJR京浜東北線、東京のK田駅だったと思う。
思うとしか書けないのは、酔っていて場所の記憶など曖昧だったからに違いないが、それはどうでもいいことだ。

これを読んでいる皆さんは、線路に落ちた経験があるだろうか。

その時、私はチェロと一緒にホームに立ち、電車を待っていた。終電近くの時間帯だったと思う。私の脇では、白いハードケースに入ったチェロが立っていた。

「私が一人で勝手に」なのか「誰かが私を」なのか「チェロが私を」なのか、よくわからないが、常識的に考えると最初のやつだ。

ホームから線路までは、特段スローモーションになるわけでもなく、普通に「あれっ、落ちる、落ちた」であった。きっと、ふにゃん、という脱力した感じで落ちたのだろう。

特に痛みは感じなかった。これもきっと酔っていたからに違いない。

ホームでそれを見た人たちが何人も近寄って来て「大丈夫ですか?」とか「駅員を呼びましょうか?」などと、線路に横たわっている私に、ホームから声を掛けた。声を掛けるだけで、線路に飛び降りて私を救出しようとする人が誰一人としていなかったのは、皆さん賢明な判断だったと今になって思う。

私はきっと「あたたた、、、」とか(痛みは感じなかったにも拘らず)言いながら、「大丈夫です」と言って起き上がり、一人でホームによじ登ることができた。もしできなかったら、非常ボタンが押されて、その後の大騒ぎが目に見えるようだ。それよりも、もし電車が来て止まるのが間に合わなかったら、「!!!(言葉にならない)」という記憶を最後に、この話を書くことはできなかったに違いない。いや、もしかしたらであるが、酔っ払った状況下でも「レールには体や足などを乗せない、また車両の底に頭などが触れないよう、最善の態勢を取る」というような理性的かつ論理的な行動を取ったかもしれないが、酔っ払いがそこまでできたかどうかは甚だ疑問である。

いずれにせよ、ホームに這い上がることができた私は、そこに無言で立っていた私の相棒であるチェロとの再会を果たせたのであった。

ちなみに、私のGパンには、その時のレールとの接触によりタップリと油の跡が残っていて、記念品として残そうかとも思ったが、これが無くても同じことを繰り返すことはあるまい、と思い直して、数日後にためらい無く捨てた。

今思い返してみると、電車が来る直前に落ちなくて本当に良かったものである。

  II.

ホーム転落事件では、何のことはなく命を取り留めた私であったが、私は一度、あちらの世界に逝きかけた経験がある。

2019年2月10日。
この話はシリアスな表現が多いが、お許し頂きたい。

その日は日曜日であった。その一週間前にはサントリーホールで、日本チェロ協会主催の「チェロの日」というイベントが二日間に亘り開催されたが、私は何となく体調が悪かった。懇親会でもアルコールを飲む気になれなかったので、どれほどの状態だったのかは想像できる。
翌日にはかなりの熱が出て、医者に行ったら何十年か振りのインフルエンザだった。

一週間仕事を休み、体調も良くなり、APA(エイパ:日本アマチュア演奏家協会)のメンバーとの、ブラームスのクラリネットトリオの練習のために、チェロを背負って家を出た。

家を出た、というのは記憶には無いが、間違いない。ちなみにこの時は酔っていない。私は酔うと楽譜が読めなくなって、練習にならないのである。

ここからは、後に人から聞いた話だが、最寄り駅に向かう途中の道路で、チェロを背負ったまま私は前のめりに倒れたとのことである。その時にたまたま後ろを歩いていて、運悪くそれを見てしまった青年2人組がビックリして119番に通報してくれた。

一人が携帯電話で救急隊員から「仰向けに寝かせろ」などの指示を受けて、残りの一人がその場で対応してくれたとのこと。「息をしてるか」との問いに対しては「していない」との回答。心肺停止の状態だったらしい。「気道を確保して、胸骨を圧迫して人工呼吸をせよ」とのことで、おそらくそんなことをしたことが無いであろう二人が「これでいいのだろうか」と思いつつ対応している所に、医療関係者の女性がたまたま通りかかり、プロによる人工呼吸が続けられた。
その間に、これもたまたま通りかかってしまった女性は、AEDを探しに近所のコンビニ2件と小学校を回り、小学校でAEDを借りて来てくれた。
路上でAEDが使われたようだが、そうこうしているうちに救急車が到着して、対応は救急隊員に引き継がれた。現場は20~30名の人だかりだったそうである。
救急車の中で心臓が蘇生するまで、救急車が消防署を出動してから18分。その前に、出動できる救急車を探し出すまでに(その消防署では救急車が出払っていて、他の消防署との連携で対応してくれた)5分、計23分間の心肺停止だった。

私はそのまま市立病院のICUに運ばれ、意識が戻って自分で呼吸できるようになったのは翌日か翌々日だったらしい。
ICUで治療を受けている私の姿を見て、両親や妹は「もうダメだろう」と覚悟したそうだ。「うちに喪服はあっただろうか」と心配したとのこと。私と違い、冗談でこんなことを言える親ではない。心配するのはそこか??と突っ込みたくなったが。

さて、意識は戻った一方で、それから10日間位の記憶がない。自分が何故病院にいるのか、わからなかった。医者から状況を聞かされても、ことの重大さが理解できなかった。

それから徐々に記憶が増え、体力も戻り、様々な問診や検査を受けた。ここでエピソードを一つ紹介しよう。問診で綺麗なお姉さんから「年齢は?」と聞かれて「25歳!」と答えたが、ニヤリと笑われただけだった。だからどうだ、というオチは無い。ここは病院である。

その後暫くして、心臓専門の病院に移り、ICD(俗に言うペースメーカーのたぐい)が埋め込まれた。私から頼んで埋め込んでもらったわけではない。「今後のために入れておきましょう、もし、万一ですが、同じことが起きても安心です」と言われて渋々了解したのである。

そうこうしているうちに、倒れてから一か月ほど経った頃であるが、2つ目の病院も退院して自宅に戻り、それから暫くして仕事にも復帰した。「生きて戻って来て良かった!」と職場で声を掛けてくれた人がどれほどいたか、残念ながらそれは覚えていない。

普通、脳に6分以上(3~4分とも言われている)、血液が回らないと何らかの後遺症が残るらしいが、おかげさまで何の後遺症も無い。昔から記憶力が弱かったが、それはそのままである。心臓が止まって記憶力が良くなった、という話は聞いたことが無いので当然だ。

しかし、23分間の心肺停止から蘇生しただけでなく、何の後遺症も残らなかったのは奇跡である。間違いない。

それはまず、倒れた現場での、見ず知らずの方々の適切な対応があったからであり、そしてその後の救急車での救急隊員の対応、さらに病院での適切な対応があったからこそ、今の私がこの原稿を書けるのである。

目の前で人が突然倒れたら、私なら怖くて近づけないかもしれない。
救急車は呼ぶであろうが、人工呼吸などできるだろうか。
もし救急車が来るまで放置されていたら、どうなっていたことだろう。

さて、退院した翌月、消防署から連絡があった。今回の現場対応に関わった方々に対して、人命救助の表彰をしたい。それに私も参加して欲しい、という話だった。

そしてその後、私を助けてくれた方々に、消防署で初めてお会いした。正確には初めてではなく2度目であるが、初めてとしか言いようがない。関わった4名のうち、都合がつかなかった1名を除き、3名との再会である。
この方々が、たまたまその場にいなかったら、、、と思うと、心の底からの感謝の念が湧いた。この人たちのお蔭で私は助かったのである。どれだけ感謝してもしきれない。
私からは、その後の現在までの状況を説明すると共に、精一杯、感謝の気持ちを伝えた。それから皆さんが、私の知らない当日の状況について説明してくれた。目頭が熱くなった。本当に、この方々のお蔭だ。

ちなみに、署長さん曰く「何十年と消防にいるが、表彰式で、助けた側と助けられた側が同席するのは初めての経験だ」とのこと。どちらが不在なのかは容易に想像できる。

私にとって、とても特別な一日であったことに対して、消防署の方々にも心からお礼を言いたい。救急車で対応してくれた方々はそこにはいなかったが、その方々にはもちろん感謝の念で一杯だが、それだけでなく、このような機会を作って頂き、この場に呼んで頂いて、本当にありがとうございます。

  III.

線路転落の際、私がホームに戻った時には、チェロは何事もなかったかのようにポツンとホームに立っていた。
また、心肺停止の時は、私と一緒に道路に倒れたにも拘らず、その後自宅で再会した際は、弦の一本も緩んでいなかった。もちろん駒も魂柱も倒れていない。おそらく私が道路とチェロの間のクッションになったからに違いないが、何故かケースには傷が何も付いていない。一体どんな倒れ方をしたのだろう。

そのうち私は、私がチェロに守られたのではないか、という考えを持つようになった。
チェロそのものなのか、あるいはケースなのか、両方なのか、それはわからないけれど。

私がそのチェロと出会ったのは、今から10年近く前である。そろそろ自分のために最後のチェロを探そう、と決めて、チェロ探しの旅を始めて2年ほど経った頃だった。それまでは、様々な理由から、決して満足とは言えないチェロをずっと使っていた。その旅の2年間は「チェロを借りては返す」を繰り返していたのだが、ようやく「これだ」というチェロに出会って、現金が足りない分はローンを組んで購入した楽器である。マンションのローンに加えての楽器のローンは、かなりきつかった。それは覚えている。私でも覚えていることは多少なりともあるのだ。

ケースは、それ以前から使っていた白いケースに、購入したチェロも収まって頂いた。その後、これは心肺停止から2年後であるが、裏板からノイズが出るようになり、信頼のおける楽器屋でニカワによる修理をしてもらったが、そのうちにまた出るようになったので相談したら「今のケースでの、裏板が当たる部分の影響かもしれない」ということで、疑心暗鬼ながら、楽器屋お勧めの新しいチェロケースに買い替えたら再発しなくなった、という経緯がある。

以前使っていたチェロは、チェロを始めたいという友人に格安で譲ったが、私の守り神の片棒かもしれない旧ケースは人に譲る気になれず、今も私の部屋に鎮座している。

私が愛用してきたチェロとケースが、「お前はまだ死んではいけない」ということで、私を守ってくれたのではないか、と考えるようになり、今ではそうに違いないと信じている。

また、以前は土日しか弾かなかったのが、コロナ渦の状況でリモートでの勤務となり、ほぼ毎日チェロを弾くようになって、「毎日弾くというのはこういうことか」と実感するようになった。初心に戻り、「開放弦のボーイング、ファーストポジション、音階」の練習がほとんどであるが、これが何と楽しいことか。こんな単純な練習を「楽しい」と思う私は、少し(かなり?)おかしいのかもしれないが、この練習で、この歳になっても上達することを実感するのが楽しいのである。

という訳で、「私を楽しませてくれるチェロ」「私の守り神であるチェロ」を、これからも末永く、大事に愛用していこうと思う。弾ける限りずっと。いつまでも。

最後にチェロ君、貴殿は私よりずっと、遥かに年上の先輩だけど、ここでの「君」は特別な愛情表現だと受け取って欲しい。「君」にしないと、ここから最後の数行が書きにくい、という事情もあるが、そこは触れないで欲しい。
君は、ローンで私を苦しめたが、守り神となって私を助けてくれた。これをもって、これまでの貸し借りは無しとしよう。「お前の命は随分と安いんだな」と思うかもしれないが、そこにも触れないで欲しい。人間には、触れて欲しくない所が多々あるのだ。
ここで提案だ。これからは、貸し借りの無い真の友人として、仲良くやっていこうじゃないか。どうだ。
そうか、受け入れてくれるか。ありがとう。「勝手に都合よく決めるな」という気持ちがあるかもしれないが、君のその気持ちは残念ながら私には届かない。何故なら、この小説は私が書いているので、私の都合で、どのようにでも書けるのである。

さてと。今日は、この小説が脱稿したお祝いだ。これから新しい弦に張り替えてあげよう。

  完

2023年1月吉日 石島栄一

Writing01

~ 私とチェロ、この不思議な関係 ~

bottom of page